幸田露伴・文(あや)と空襲
当方、文学趣味は希薄で特に小説を読むということは何らかの他のきっかけがないと始まらない。
相当昔に購入し、読まずに並べていただけの随想集をたまたまパラパラとめくっていたら気になる一節が目に入った。
「遠い爆風でも皮膚は木目のようにやぶれたとか、ガラスの破片は忍び返しのようにささってとかいう話は、戦慄をもって父の身に考えられ、またしても生き見の父を安泰に保ちたい思いで、胸は一杯になった。
誰にしても素掘りの壕や押し入れを鉄壁と頼むわけのものでもないが、八十に近い人といへば常不断でも何か覆うものが欲しい気がするではないか。」
これは幸田文が1945年に発表した「終焉」の一説である。
文化勲章受章者で学士院会員の文豪・露伴一家でも非常時ゆえか他人を煩わせることはしまいと出戻娘、文は「私は防護団に叱り飛ばされながら,筵(むしろ)に水をうったりせねばならなかった。」と続ける。
B29の爆音と引き続く破壊の轟音の中、文が父を守るために室内でなしたことは、父を押し入れに入れ、入り口を布団で塞ぎ、その前に座ることだった。
手に汗握るような描写は続く。
「どっというような音響が起こり、あたりは揺れた。防護団が出動出動と叫んでいる。
不安と恐怖でこらえられず「お父さん」と呼んだ。
父は「馬鹿め、そんなところにいて。言っておいたじゃないか。どこへでも行ってろ」
「このさなかにお父さんのそばは離れられない。どこへ行くのもいやです,行きたかありません」
「行けというのだ」
「いやです」
「貴様がそこにいて何の足しになる」
渾身の集中力で書かれている一連の描写は哀れでかつ凄まじい。弟、姉の間で頭も容貌もすぐれず父に虐待ともいえる言動を投げかけられていた中年子連れ出戻り娘が作家として認められるに至った核心の箇所だと思う。